「なぜ、富士山は日本一高いのか。」
「それは裾野が日本一広いからです。だから、与えられた仕事は何でもやりなさい。」

私が弁護士登録をするとき、当時の日弁連会長である本林徹弁護士からこのようなお言葉をいただいた。高くそびえるためには、その土台が広く強固である必要がある、高くそびえたいのであれば、事件を選ばず、大きな山を支えられる土台作りをしっかりとやることだ、という意味である。

私がこの言葉を胸に弁護士を始めた頃、法律事務所の専門特化ということが叫ばれるようになり、また暫くするとある事件を契機に企業法務の特定の分野が連日賑やかに報道され始めた。

私はその頃、華やかさとは無縁で地を這うような事件を追いかけていた。土台作りという先の見えにくい泥だらけの作業をしていると、時として、一見特定の分野に限られた華やかそうな世界を羨ましく思うようになった。

他人との比較。この普遍的な迷いの解決法はないのだろうかと書物を漁り始め、2年ほど経過したときにヘルマン・ヘッセの言葉に出逢った。

自分の完成に憧れなさい  ヘルマン・ヘッセ

ノーベル文学賞受賞作「ガラス玉演戯」に見付けたこの言葉は、修行中の主人公が名人から言われた言葉である。

この言葉は、ヘッセが彼自身に投げかけ続けた言葉でもあったと感じた。人は誰であれ時に人との比較で自分を見失うおそれを抱えると思う。

世の中に生起する事件を分野ごとに第三者は分解できるが、生の事件は民事や刑事や家事などと云った分野に分けては生まれない。また、どんなに大きな企業でも人の集まりであり、根本は人である。事件の事象を私は個人・法人の別や分野の種別を問わず全て理解したいと願っていた。それが今後自分が弁護士としてやっていく上で決して譲れない土台であった。

ヘッセの言葉で、私の迷いは雪のように消えていった。

若い頃の迷いは遠回りしているようで案外「自分を完成させること」の近道かも知れない。道に迷うことにより道を知るように、迷うことによりはじめて歩むべき道を確かめることもできるのだから。